「どう解釈していただいても構わない、というのが大前提です。ただ、単に荒唐無稽なものというよりは、私自身は奇妙な納得感を感じつつ書いたり、撮ったりしていました。結局あの場面で誰もが受け取るものは、個人の中に潜んでいる暴力性の噴出みたいなものです。それが少なくとも映画の中にはっきり存在している。観客は当然、それを悪と見なしたい気持ちを強く持つと思います。
ところが、この映画には『悪は存在しない』というタイトルがついている。観客はそれを単に悪と見なすことを禁じられながら観る。タイトルと内容の緊張関係の最も高まるその瞬間、その体験こそが面白いものでは、と思ってつくっています」
6月8日に下北沢シネマK2にて鑑賞してきた.監督はあのドライブ・マイ・カーの濱⼝⻯介.
濱口さんが描く感情はとてもフラットで些細に感じる.大喜びしたり大激怒したり,そういったわかりやすい表現ではなくて,誰でも感じるけどあえて表に出さないような,無意識の中にある静かな感情を丁寧に描いているようだ.この映画もそういった見えそうで見えない感情を言語化せずに描いている.
一度でもこの映画を観た人なら最後のシーンについて深く考えることになるはず.ぼくはあのラスにに正解はないと思って,だからググって答え探しをしてもきっとそれは答えのひとつでしかなくて,どんな解釈であってもいいように感じている.
作品中のキーワードを並べてみると,
– 鹿は人を襲わない,半矢の鹿は襲うときもある(半矢とは手負い,傷を負っているということ)
– 響き渡る銃声
– 水の音
– 資本主義の内と外
– 巧の不気味さ(自然に詳しい,感情がない,物忘れが激しくどんな仕事をしているのかわからない)
– 高橋の孤独
これらのキーワードからラストシーンを見てみると,半矢の親鹿と子鹿,それを見つめる花の姿とその姿を追う巧.この構図は鹿の親子と巧と花の親子がどちらも半矢であることを描いているように感じる.
半矢の鹿は人を襲う.だから花は襲われた.その鹿は誰に半矢にされたのか.人が鹿を傷つけて,鹿が人を傷つける.だから悪は存在しない.というメッセージなのかな?と感じることもできた(いや,そんな浅はかな理解でいいわけないと思うけど).
とはいえ,そもそもラストシーンは真っ暗な夜だった.しかし花を探して草原に出たときは霧煙る朝方のように見える.つまり途中から幻想の世界になっていたのかもしれない.目の前に花がいるのにそれより先に巧が高橋の首を締めるのはちょっと疑問がのこる.あのシーンはすべて巧の描く妄想なのではと思って観てました.
そもそも巧がちゃんと花を迎えにいけていればこの事態にはならなかった,どうして迎えにいくことを忘れていたのか,それは高橋が東京からやってきたから.だから首を絞めたくなったのかもしれない.だけど巧は黛に謝っている.花を探すことで薫の手の平を傷つけてしまったことに対する謝罪.だとすれば,高橋や薫に対して責任を感じているわけではなくて,あくまでも巧自身がその責任を感じているように思う.
結局この映画の結末に答えはない.その方が映画の余韻を楽しむことができる.そして何度も何度も思い出すから記憶に残る.濱口さんはそんな映画を作りたかったのかもしれない.